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「GOD EATER 3」キャラクターノベル 第三章 クレア編「穢れなき選択」
「GOD EATER 3」キャラクターノベル クレア編「穢れなき選択」 ~3章-2話~
それから、しばらくの時間が流れて――
「父さんと仲直りがしたい。そのためにクレア、君に協力してほしいんだ」
ある日突然。ミナトを出たはずのエドリックお兄ちゃんが、私の前に現れた。
誰にも内緒でこっそり帰ってきた。そう照れ臭そうに笑うお兄ちゃんの姿に、私は喜びですぐ舞い上がってしまった。
「うん! 私が必ず、お父さんと仲直りさせてあげる!」
お兄ちゃんが帰ってきてくれた。生まれて初めて、私のことを頼ってくれた。
そのことが、とても嬉しくて。
絶対にお兄ちゃんの願いを叶えなくちゃと、私はお父さんを、いつもよりずっとずっと明るい笑顔で呼び出した。二人きりでお話ししたいという、お兄ちゃんの願い通りに。
きっと今夜にはまた家族揃ってご飯が食べられるんだ。沢山お話が出来るんだ。
待ちきれなくて、私は邸宅の裏へと走った。
お兄ちゃんが居なくなった後、私は邸宅の裏にも小さな花畑を作っていた。
いつかまたお兄ちゃんと一緒に暮らせますようにと、お気に入りの花の種に願いを込めて作った花畑だ。
その願いが、まさか本当に叶うなんて。
「お父さん、お兄ちゃん!」
笑顔の花を咲かせて、二人の待つ場所へ駆け込んだ。
ここからまた、幸せな明日に歩いていくために。
「――え?」
色とりどりの花で飾ったはずの私の花畑は、真っ赤な血で塗り潰されていた。
胸から鮮血を溢れさせ、仰向けに倒れたまま動かない人物が、自分の父だということを、すぐには理解出来なかった。
「……お、父さん……?」
ふらふらとその亡骸に寄り添い、まだ温もりの残る体を弱々しく揺する。
しかし反応は返ってこない。
「……お父さん……お父さん!」
体の芯が痺れるような感覚に襲われ。呼吸が激しさを増していく。
必死に揺り動かすその体から温もりが失われていき、いつしか私の目からも、涙が溢れだしていった。
「……ぁ……ぁあ……あああああ……っ!?」
血に塗れることも構わず、お父さんの亡骸に縋りつく。
何で、どうして、と膨れ上がる疑問に、答えは出なくて。
破裂しそうな意識の中、血と涙に濡れた顔を、ふと前に向けた時だった。
遠くに、こちらを見つめている人影が見えた――ような気がした。
その人影はこちらに向けて何かを呟き、その瞬間、私は意識を失った。
ミナトに侵入した賊による、ランダル・ヴィクトリアス殺害事件。
誰もが抜け殻のようになった私に、事件の真相を語って聞かせた。
大々的に行われた葬儀が終わっても尚、現実を受け入れきれていなかった私に、今度は兄の訃報が舞い込んでくる。
灰域の中で行方不明となり、もはや死亡は確実である、と。
大切な家族を立て続けに喪い、私は何日も部屋に閉じこもった。
心が軋むような――強烈な違和感を――必死に押し殺しながら。
それでも周りの大人たちは、懸命に励ましの言葉をかけ続けてくれた。
貴女は何も見ていない。貴女は何も関係ない。既に終わったこと。気にしなくていい。忘れてしまえばいい。自分のことを考えていい。大人たちの言うことを聞いていればいい。
心の傷口を無理やり抑え込むような、容赦ないほどの“優しさ”が、私の中から家族の死の記憶を薄れさせていった。
……そうだ。お父さんは賊に殺された。お兄ちゃんも灰域で死んでしまった。
ヴィクトリアス家はもう、私が守っていくしかない。
これまで私を守ってくれた人たちに、今度は私が恩返しする番なんだ。
決意と共に、私は何とか立ち上がった。
それが何を意味するのか、理解も出来ていないまま――
その頃から、屋敷の中が慌ただしくなっていった。
グレイプニルの高官らしき人たち。他のミナトからの使者。それ以外にも、得体の知れない人たちが何人も屋敷へ出入りするようになった。
誰もが例外なく、貼りついたような気味の悪い笑みを浮かべて私に挨拶に来る。
――ランダル様に救われた者です。――ランダル様の友人です。
みんな決まりごとのようにそう言うくせに、その後は父の話など一切出ず、私の将来のことや、これからどう暮らしていくのか。ミナトの所有権や、財産の話になっていく。
ほとんどは、長年家に仕えてくれている使用人たちがあしらってくれたけれど……この人たちは全員ヴィクトリアス家を狙う敵なのだということが、嫌でも理解出来た。
この先、簡単に他人を信用してはいけない。それが自分や、周りの人たちを守ることに繋がるんだと、私は学んでいった。
けれど。目に映る全ての人を疑う日々は私にとってはとても辛くて。
どうか信頼できる人であってください――初めて会う人と向き合う時、毅然とした態度の裏で、私の心はいつもそんな悲鳴を上げていた。
「ランダル様が亡くなり、エドリックも死亡と報じられた今、ヴィクトリアス家が保有する莫大な利権と財産を守っていくには……新たな当主が必要なのです」
ある日のこと。父の側近を務めてくれていた人が、使用人たちを必死に説得する声が聞こえてきた。
私は恐る恐る、小さく扉を開けて中のやり取りに聞き入った。
「形だけでも構いません。ヴィクトリアス家の正当な跡継ぎとしてクレア様が名乗りを上げられれば、それだけで守れるものが数多くある」
やはり来た。きっと近々、そういう話が来るだろうと思っていた。
……構わない。私はまだ何も知らないけれど、それでもこの家を守っていきたい。
きっと沢山迷惑をかけるけど、ヴィクトリアスの名を背負っていく覚悟は出来て――
「ではやはりクレアお嬢様には……ゴッドイーターとなって戦場に出て頂くしか……」
「……え?」
その言葉に、思わず物音を立ててしまった。
これまでずっと味方だと思っていた人たちの、気の毒そうな、しかし何処か反論を許さない高圧的な視線が、一斉に私に突き刺さる。
「武門として名を馳せてきたヴィクトリアス家が、健在であることを内外に示すには……それしか」
――以前、お父さんに言ったことがある。
私もゴッドイーターになって一緒に戦いたい。お父さんやお兄ちゃんが一緒なら怖くない、と。
けど、お父さんはこう言って私を諫めたんだ。
『お前を危険な戦場に出す訳がないだろう。お前は私たちの帰る場所と、そこで暮らす人たちを守ってあげなさい』
私の使命は、戦いで傷ついた人を助けることなんだって、お父さんは言った。
いつしかその言葉は、絶対のものとして私の中に刻まれていた。
だからこそ、今、この瞬間まで想像すらしていなかったんだ。
お父さんの後を。ヴィクトリアス家を継ぐということの、本当の意味を。
「私が戦場で……アラガミと戦う?」
お父さんも、お兄ちゃんも、もう居ない。誰一人信用出来ないこんな状況で?
……出来るはずない。
「クレアお嬢様……」
けれど――もしも私がこの場で、嫌だと言ったら。
その瞬間、私は誰にとっても要らない存在になってしまう。
ヴィクトリアス家も。それに連なる人々も。多くのものを失うだろう。
それだけは、はっきりと理解出来た。
弱い心を見せちゃいけない。ここで自分の運命を受け入れるべきなんだ。
分かっている。分かっているのに。
「あ……お嬢様、お待ちください!」
その場の重圧と未来への恐怖に耐えられず、私は逃げるように外へと走り出した。
かつて、温かな明日と、幸せな未来を夢想した庭園に向かって。
けれど、夢への第一歩だったはずの私の花畑は、父の遺体を処理する時に跡形もなく均されてしまった。
もはや見る影もない夢の残骸を駆け抜けて、私は初めて、誰の許可も得ないまま屋敷の外に飛び出した。
今だけは、誰も私を知らない世界に行きたくて。
「はぁ……はぁ……」
訳も分からず走り回って、気が付いたら、ミナトの格納庫までやってきていた。
見慣れない巨大な灰域踏破船が一隻、重厚な存在感を放ってそこに鎮座している。
もし。もしも、こっそりこれに乗れたなら――
「あ……っ!」
その時、うっかり階段を踏み外して、階下に転落してしまった。
痛みを堪えながら目を開ける。右手を深く切ってしまったらしく、血が滴っていた。
「っ……ぅ、ぅう……」
血を流すような怪我をするのも、初めてだ。
もう安全な檻の中に閉じこもるのは許されないと、宣告されたような気分だった。
……きっとこの先、私は永遠に大人たちのあの目に晒され続ける。
期待と、哀れみと、強制の眼差し。
たとえお飾りの当主であっても、戦場に出て、期待に応え続けなければ全てを失う。
そしてもし応えられなければ、その瞬間、自分が死ぬ。
仕方のないことだけど。それが、クレア・ヴィクトリアスの運命なのだろうけど。
「嫌だ……嫌だっ! ……怖い……怖いよっ!」
ずっと押し殺してきた思いが、涙と一緒に零れ落ちた。
大人たちの視線が。権力やお金の話になった途端、目の色が変わるあの瞬間が恐ろしい。
みんなみんな自分のことしか考えてない嘘つきだ。
お父さんの最後の言葉が、頭の中に何度も響く。
――捨ててしまいなさいと。――自分の未来を生きなさいと。
だけど、今捨ててしまったら私には何も残らない。味方してくれる人すらも、何一つ。
何もかも背負って、前に進んでいくしかないんだ。
でも、誰か。誰か。誰か。
「……助けて……っ!」
この声を、聞いて――
「――その傷、見せなさい」
不意に声をかけられた。
そこには私と同じくらいの歳の女の子が、長い綺麗な銀髪を揺らして立っていた。
冷たくて鋭い氷のような眼差しが、私を値踏みするように見据えている。
「っ……ご、ごめんなさい。大丈夫です。何でもありませんから!」
こんな状態でも、誰に対しても気高く毅然とした態度を心がけることという教えが、体を動かした。
涙を拭い、佇まいを直してこの場を後にしようとする。しかし。
「血を流して泣いてる女の子を大丈夫とは言わないのよ」
「わっ、あ、あの……っ!?」
その子は強引に私を引っ張って傍らのベンチに座らせると、取り出した消毒液で傷口を丁寧に処置してくれた。
「ごめんね、包帯がないからこれで我慢して」
白いハンカチが優しく傷口に巻かれる。あまりの手際の良さに呆気に取られた。
私の隣に座った少女の右腕には――真新しい、赤い腕輪が嵌まっていた。
「ゴッドイーター……その歳で?」
「そうだけど、悪い? ……貴女、クレア・ヴィクトリアスね?」
その子は腕輪の嵌まった手を差し出して、小さく微笑んだ。
「私はエイル・アルベルト。貴女の友達になってこいと命令されてここに来た……貴女の敵よ。よろしくね」
アルベルト家は辺境の小領地を治める貴族家であり、優秀なゴッドイーターを輩出することで名声を得てきたらしい。
しかし、厄災により領地が灰域に包まれ、一族のゴッドイーターもほとんどが失われてしまい、アルベルト家は没落寸前の状態に追い込まれた。
そこで新たに、アルベルト家の権威を取り戻すゴッドイーターとして選ばれたのが――
「この私ってこと。家の存続のためだけに、大勢の候補の中から運悪く選ばれたの」
右手の腕輪を見つめながら、エイルは自分のことをそう語った。
「いずれはグレイプニルに所属することになると思う。だから今のうちに、何の縁もないランダル様の弔問にかこつけて、貴方と友達になってコネクションを作っておけ……っていうのが今回の親からの指令。イヤになるわよね、浅ましくて」
わざわざ灰域踏破船に乗って、遠方からはるばる私の心につけこむためにやってきた――エイルは不愉快そうに鼻を鳴らしてそう吐き捨てる。
「けど、ヴィクトリアス家は今ガードが固くて、日頃交流のない貴族家との接触は避けてるみたいでね。追い返されて、帰るところだったんだけど……不思議な縁もあるのね。お陰でアルベルト家がろくでもない貴族だって貴女に伝えられたわ」
面白そうに語るエイルを、私はぽかんとした顔で見ていた。
「ど、どうして……そんなことまで言っちゃうの?」
人知れず出会って、傷の手当てまでしてもらった。エイルにとっては絶好のチャンスだったはず。
下心を隠して近づいてくれば、私は普通にエイルに心を開いたかもしれないのに。
「そうね、ついさっきまでは親の言いつけ通りに貴女のお友達になる気でいたわよ? こんな風に」
そう言って、エイルは私の手の上に自分の手を重ねると、そっと身を寄せてきた。
さり気ないスキンシップと、鼻先を掠める甘い香り。同年代とは思えないほど魅惑的な眼差しに、一瞬顔が熱くなる。
「けど、当のクレア・ヴィクトリアスが誰も居ない格納庫の隅で、血を流して泣いてるのを見ちゃったらね……」
そう嘆息して、エイルはつまらなそうに天井を見上げた。
「こんな子を騙すなんて、何考えてるんだろうって……冷めちゃったわ」
疲れたようにそう呟いて、エイルは私に視線を向ける。
「それで、どうして泣いてたの? 話せることがあるなら聞いてあげる」
「っ……それは……」
「心配しなくても誰にも言ったりしないわよ。私も親の操り人形だもの。誰かに聞いてもらいたいことがあるのに、誰にも吐き出せない気持ちは分かるつもり」
エイルは重ねた手にそっと力を込めた。
「だから今だけ。全部聞いて、その上で聞かなかったことにしてあげる。言いたいことがあるなら、ここで吐き捨てていきなさいな。……楽になるから、ね?」
励ますでもなく、立ち直らせるでもなく、秘めた弱さをただそのまま吐き出せば良いと、エイルは言ってくれた。
これまで出会ってきた、建前と偽物の笑顔で近づいてくる大人たちとは違う。
自嘲的だけど、それ故に誠実な雰囲気。
もしこれが最初から、私に取り入るエイルの作戦だったとしたら見事なものだけど――その言葉には何一つ、後ろ暗い思惑を感じられなくて。
エイルになら、ありのままの自分を曝け出しても構わないと思えた。
「……あのね」
ぽつりと、死んだ父と兄への感情が口から零れて。
そこから先は自分でも驚くほど饒舌に、日々の息苦しさと、未来への不安。身勝手な大人たちへの反感と、夢破れた虚しさが、次々と溢れだした。
こんなにもドス黒い感情が溜まっていたのかと、自分で笑ってしまうほどに。
燃え尽きた灰のような感情を、私は一粒の涙と共に、片っ端からエイルに吐き出した。
「……頑張ったわね」
全て聞き終えたエイルは、指先で私の涙をすくうと、優しく背中を撫でてくれた。
本当に、ただ文句を吐きだしただけで、何も解決していないのに。
エイルの言った通り、大きな胸のつかえが取れたような気持ちになれた。
「ありがとう……少しだけ、楽になった気がする」
「それなら良かったわ。だけど、これからどうするの?」
「私は……やっぱり」
「やっぱり適合試験を受けるって言うつもりなら反対。毎日毎日、大人に監視されながら訓練と勉強……結果を出せなきゃ、わざとらしいため息を聞かされるわ。貴女が思ってるより、ずっと辛いはずよ」
赤い腕輪を恨めしそうに睨みながら、エイルは語る。
「それに、どれだけ鍛えても、学んでも、戦場に出ればいつだって死と隣り合わせ。……覚悟がないなら、やめておきなさい」
どこか寂しそうに、エイルは遠くを見据えた。
「ならエイルには……覚悟があるの?」
私の質問に、エイルはしばらく口を閉ざした後で立ち上がった。
「――私は、操り人形のまま終わるつもりはないだけ」
堂々と腕輪の嵌まった手を胸に当てて、エイルは揺るぎない眼差しを向けてきた。
「富でも、名声でも、親が望むものは全て手に入れてみせる。その先で、私がアルベルト家を支配するの。権力に目が眩んだ両親を黙らせて、私が望むアルベルト家を作ってみせる」
自分を縛る一族を、自分の手で変えるために――
運命に抗おうとするその眼差しは、私にとって何より鮮烈だった。
「ふぅ……はっきり人に話したのは私も初めて。貴女もちゃんと忘れてね?」
ふと力を抜いたエイルは、はにかみながら視線を逸らした。
その時。
「クレアお嬢様! クレアお嬢様!」
上層から私を探す声が聞こえてきた。
「お迎えが来たみたいね。……お話しは、これで終わりにしましょう」
エイルは踵を返して、船の方へと歩いていく。
「ちゃんと適合試験なんて受けたくないって伝えなさい。貴女は光の中に居た方がいいわ。こっち側に来ちゃダメよ? ……それじゃあね」
「あ……」
行ってしまう。
お互い、言いたいことだけ言いあって。
何も交わらないまま、この瞬間が終わってしまう。
「わ、私がゴッドイーターになった方が、利用価値があったんじゃないの!? なのに、どうして止めるようなことばっかり……っ!」
咄嗟に立ち上がって、その背中に声をかけていた。
立ち止まり、数秒思案したエイルは――
「そうかもね……ふふっ、勿体ないことしちゃったわ」
優しい笑顔を浮かべて、振り向いてくれた。
――嘘偽りなく、心から相手のことを慈しむ愛情。
エイルの笑みから、私は確かにそれを感じ取った。
「さようなら、クレア・ヴィクトリアス。いつか花で一杯のミナトが作れるといいわね」
最後に贈られたその言葉が、私の心を優しく包み込む。
出会って、たった十数分。触れ合っていた時間はとても短い。
なのに、恐怖と不安に喰い尽されんばかりだった私の心には、小さな炎が灯っていた。
誰かに、手を差し伸べる――
それが一体どういうことなのか、私はようやく理解した。
「このハンカチ、返しに行くから!」
誓いの言葉が、エイルに届く。
「……要らないわよ、貴女の血のついたハンカチなんて」
呆れたように振り向いたエイルに、私は断固と首を振る。
「エイルが何て言おうと決めた! 必ず返しに行く! 貴女が世界のどこに居ても、私の意志で絶対に届けに行く! だから……だから、忘れないで!」
何にも縛られることなく、秘めた思いを吐き出し合った相手が居たことを。
優しい貴女の心と、その想いを知っている人が居ることを。
――遠くから、じっと私の瞳を見つめていたエイルは、やがて。
「……じゃあ、その日まで死なずに待ってるわ」
微笑みと共に、頷いてくれた。
「クレアお嬢様、こちらでしたか!」
私を迎えに来た使用人に、私は毅然と向き直る。
「心配させてごめんなさい。……屋敷に戻ったら、みんなに伝えたいことがあるの」
父と兄が築いてきたヴィクトリアス家の栄光。
グレイプニルという巨大な組織。それに救われている沢山の人たち。
その全てを、私が守っていかなければならないと思っていた。
そしてそれを守るためには、自分の全てを捨てて大人たちに従うしかないのだと。
けど、そうじゃなかった。
強すぎる光に照らされて何も見えなくなっていた私に、冷たく乾いた暗闇から道を示してくれた人が居た。
たとえ操り人形であろうとも、自分を捨てる必要はないんだと。
夢を見ていいんだと、そう教えてくれた。
だったら、私は――
「私はゴッドイーターになります。ヴィクトリアス家の当主として……誰かの心に寄り添える人になってみせる」
それが、道標と勇気を貰った私の答え。
結局、他人のためなのか。エイルはそう言って呆れるのかもしれないけれど。
これは、私を利用しようとする大人たちのためじゃない。
暗闇で喘ぐ人たちの心に、希望の花を芽吹かせるための――私がずっと見つけたかった道だから。
血の滲んだハンカチを握りしめて、私は一歩を踏み出す。
光と闇の境界線。暗闇で待つ人を光へと導ける、自分の望む未来へ向かって。
それから、しばらくの時間が流れて――
「父さんと仲直りがしたい。そのためにクレア、君に協力してほしいんだ」
ある日突然。ミナトを出たはずのエドリックお兄ちゃんが、私の前に現れた。
誰にも内緒でこっそり帰ってきた。そう照れ臭そうに笑うお兄ちゃんの姿に、私は喜びですぐ舞い上がってしまった。
「うん! 私が必ず、お父さんと仲直りさせてあげる!」
お兄ちゃんが帰ってきてくれた。生まれて初めて、私のことを頼ってくれた。
そのことが、とても嬉しくて。
絶対にお兄ちゃんの願いを叶えなくちゃと、私はお父さんを、いつもよりずっとずっと明るい笑顔で呼び出した。二人きりでお話ししたいという、お兄ちゃんの願い通りに。
きっと今夜にはまた家族揃ってご飯が食べられるんだ。沢山お話が出来るんだ。
待ちきれなくて、私は邸宅の裏へと走った。
お兄ちゃんが居なくなった後、私は邸宅の裏にも小さな花畑を作っていた。
いつかまたお兄ちゃんと一緒に暮らせますようにと、お気に入りの花の種に願いを込めて作った花畑だ。
その願いが、まさか本当に叶うなんて。
「お父さん、お兄ちゃん!」
笑顔の花を咲かせて、二人の待つ場所へ駆け込んだ。
ここからまた、幸せな明日に歩いていくために。
「――え?」
色とりどりの花で飾ったはずの私の花畑は、真っ赤な血で塗り潰されていた。
胸から鮮血を溢れさせ、仰向けに倒れたまま動かない人物が、自分の父だということを、すぐには理解出来なかった。
「……お、父さん……?」
ふらふらとその亡骸に寄り添い、まだ温もりの残る体を弱々しく揺する。
しかし反応は返ってこない。
「……お父さん……お父さん!」
体の芯が痺れるような感覚に襲われ。呼吸が激しさを増していく。
必死に揺り動かすその体から温もりが失われていき、いつしか私の目からも、涙が溢れだしていった。
「……ぁ……ぁあ……あああああ……っ!?」
血に塗れることも構わず、お父さんの亡骸に縋りつく。
何で、どうして、と膨れ上がる疑問に、答えは出なくて。
破裂しそうな意識の中、血と涙に濡れた顔を、ふと前に向けた時だった。
遠くに、こちらを見つめている人影が見えた――ような気がした。
その人影はこちらに向けて何かを呟き、その瞬間、私は意識を失った。
ミナトに侵入した賊による、ランダル・ヴィクトリアス殺害事件。
誰もが抜け殻のようになった私に、事件の真相を語って聞かせた。
大々的に行われた葬儀が終わっても尚、現実を受け入れきれていなかった私に、今度は兄の訃報が舞い込んでくる。
灰域の中で行方不明となり、もはや死亡は確実である、と。
大切な家族を立て続けに喪い、私は何日も部屋に閉じこもった。
心が軋むような――強烈な違和感を――必死に押し殺しながら。
それでも周りの大人たちは、懸命に励ましの言葉をかけ続けてくれた。
貴女は何も見ていない。貴女は何も関係ない。既に終わったこと。気にしなくていい。忘れてしまえばいい。自分のことを考えていい。大人たちの言うことを聞いていればいい。
心の傷口を無理やり抑え込むような、容赦ないほどの“優しさ”が、私の中から家族の死の記憶を薄れさせていった。
……そうだ。お父さんは賊に殺された。お兄ちゃんも灰域で死んでしまった。
ヴィクトリアス家はもう、私が守っていくしかない。
これまで私を守ってくれた人たちに、今度は私が恩返しする番なんだ。
決意と共に、私は何とか立ち上がった。
それが何を意味するのか、理解も出来ていないまま――
その頃から、屋敷の中が慌ただしくなっていった。
グレイプニルの高官らしき人たち。他のミナトからの使者。それ以外にも、得体の知れない人たちが何人も屋敷へ出入りするようになった。
誰もが例外なく、貼りついたような気味の悪い笑みを浮かべて私に挨拶に来る。
――ランダル様に救われた者です。――ランダル様の友人です。
みんな決まりごとのようにそう言うくせに、その後は父の話など一切出ず、私の将来のことや、これからどう暮らしていくのか。ミナトの所有権や、財産の話になっていく。
ほとんどは、長年家に仕えてくれている使用人たちがあしらってくれたけれど……この人たちは全員ヴィクトリアス家を狙う敵なのだということが、嫌でも理解出来た。
この先、簡単に他人を信用してはいけない。それが自分や、周りの人たちを守ることに繋がるんだと、私は学んでいった。
けれど。目に映る全ての人を疑う日々は私にとってはとても辛くて。
どうか信頼できる人であってください――初めて会う人と向き合う時、毅然とした態度の裏で、私の心はいつもそんな悲鳴を上げていた。
「ランダル様が亡くなり、エドリックも死亡と報じられた今、ヴィクトリアス家が保有する莫大な利権と財産を守っていくには……新たな当主が必要なのです」
ある日のこと。父の側近を務めてくれていた人が、使用人たちを必死に説得する声が聞こえてきた。
私は恐る恐る、小さく扉を開けて中のやり取りに聞き入った。
「形だけでも構いません。ヴィクトリアス家の正当な跡継ぎとしてクレア様が名乗りを上げられれば、それだけで守れるものが数多くある」
やはり来た。きっと近々、そういう話が来るだろうと思っていた。
……構わない。私はまだ何も知らないけれど、それでもこの家を守っていきたい。
きっと沢山迷惑をかけるけど、ヴィクトリアスの名を背負っていく覚悟は出来て――
「ではやはりクレアお嬢様には……ゴッドイーターとなって戦場に出て頂くしか……」
「……え?」
その言葉に、思わず物音を立ててしまった。
これまでずっと味方だと思っていた人たちの、気の毒そうな、しかし何処か反論を許さない高圧的な視線が、一斉に私に突き刺さる。
「武門として名を馳せてきたヴィクトリアス家が、健在であることを内外に示すには……それしか」
――以前、お父さんに言ったことがある。
私もゴッドイーターになって一緒に戦いたい。お父さんやお兄ちゃんが一緒なら怖くない、と。
けど、お父さんはこう言って私を諫めたんだ。
『お前を危険な戦場に出す訳がないだろう。お前は私たちの帰る場所と、そこで暮らす人たちを守ってあげなさい』
私の使命は、戦いで傷ついた人を助けることなんだって、お父さんは言った。
いつしかその言葉は、絶対のものとして私の中に刻まれていた。
だからこそ、今、この瞬間まで想像すらしていなかったんだ。
お父さんの後を。ヴィクトリアス家を継ぐということの、本当の意味を。
「私が戦場で……アラガミと戦う?」
お父さんも、お兄ちゃんも、もう居ない。誰一人信用出来ないこんな状況で?
……出来るはずない。
「クレアお嬢様……」
けれど――もしも私がこの場で、嫌だと言ったら。
その瞬間、私は誰にとっても要らない存在になってしまう。
ヴィクトリアス家も。それに連なる人々も。多くのものを失うだろう。
それだけは、はっきりと理解出来た。
弱い心を見せちゃいけない。ここで自分の運命を受け入れるべきなんだ。
分かっている。分かっているのに。
「あ……お嬢様、お待ちください!」
その場の重圧と未来への恐怖に耐えられず、私は逃げるように外へと走り出した。
かつて、温かな明日と、幸せな未来を夢想した庭園に向かって。
けれど、夢への第一歩だったはずの私の花畑は、父の遺体を処理する時に跡形もなく均されてしまった。
もはや見る影もない夢の残骸を駆け抜けて、私は初めて、誰の許可も得ないまま屋敷の外に飛び出した。
今だけは、誰も私を知らない世界に行きたくて。
「はぁ……はぁ……」
訳も分からず走り回って、気が付いたら、ミナトの格納庫までやってきていた。
見慣れない巨大な灰域踏破船が一隻、重厚な存在感を放ってそこに鎮座している。
もし。もしも、こっそりこれに乗れたなら――
「あ……っ!」
その時、うっかり階段を踏み外して、階下に転落してしまった。
痛みを堪えながら目を開ける。右手を深く切ってしまったらしく、血が滴っていた。
「っ……ぅ、ぅう……」
血を流すような怪我をするのも、初めてだ。
もう安全な檻の中に閉じこもるのは許されないと、宣告されたような気分だった。
……きっとこの先、私は永遠に大人たちのあの目に晒され続ける。
期待と、哀れみと、強制の眼差し。
たとえお飾りの当主であっても、戦場に出て、期待に応え続けなければ全てを失う。
そしてもし応えられなければ、その瞬間、自分が死ぬ。
仕方のないことだけど。それが、クレア・ヴィクトリアスの運命なのだろうけど。
「嫌だ……嫌だっ! ……怖い……怖いよっ!」
ずっと押し殺してきた思いが、涙と一緒に零れ落ちた。
大人たちの視線が。権力やお金の話になった途端、目の色が変わるあの瞬間が恐ろしい。
みんなみんな自分のことしか考えてない嘘つきだ。
お父さんの最後の言葉が、頭の中に何度も響く。
――捨ててしまいなさいと。――自分の未来を生きなさいと。
だけど、今捨ててしまったら私には何も残らない。味方してくれる人すらも、何一つ。
何もかも背負って、前に進んでいくしかないんだ。
でも、誰か。誰か。誰か。
「……助けて……っ!」
この声を、聞いて――
「――その傷、見せなさい」
不意に声をかけられた。
そこには私と同じくらいの歳の女の子が、長い綺麗な銀髪を揺らして立っていた。
冷たくて鋭い氷のような眼差しが、私を値踏みするように見据えている。
「っ……ご、ごめんなさい。大丈夫です。何でもありませんから!」
こんな状態でも、誰に対しても気高く毅然とした態度を心がけることという教えが、体を動かした。
涙を拭い、佇まいを直してこの場を後にしようとする。しかし。
「血を流して泣いてる女の子を大丈夫とは言わないのよ」
「わっ、あ、あの……っ!?」
その子は強引に私を引っ張って傍らのベンチに座らせると、取り出した消毒液で傷口を丁寧に処置してくれた。
「ごめんね、包帯がないからこれで我慢して」
白いハンカチが優しく傷口に巻かれる。あまりの手際の良さに呆気に取られた。
私の隣に座った少女の右腕には――真新しい、赤い腕輪が嵌まっていた。
「ゴッドイーター……その歳で?」
「そうだけど、悪い? ……貴女、クレア・ヴィクトリアスね?」
その子は腕輪の嵌まった手を差し出して、小さく微笑んだ。
「私はエイル・アルベルト。貴女の友達になってこいと命令されてここに来た……貴女の敵よ。よろしくね」
アルベルト家は辺境の小領地を治める貴族家であり、優秀なゴッドイーターを輩出することで名声を得てきたらしい。
しかし、厄災により領地が灰域に包まれ、一族のゴッドイーターもほとんどが失われてしまい、アルベルト家は没落寸前の状態に追い込まれた。
そこで新たに、アルベルト家の権威を取り戻すゴッドイーターとして選ばれたのが――
「この私ってこと。家の存続のためだけに、大勢の候補の中から運悪く選ばれたの」
右手の腕輪を見つめながら、エイルは自分のことをそう語った。
「いずれはグレイプニルに所属することになると思う。だから今のうちに、何の縁もないランダル様の弔問にかこつけて、貴方と友達になってコネクションを作っておけ……っていうのが今回の親からの指令。イヤになるわよね、浅ましくて」
わざわざ灰域踏破船に乗って、遠方からはるばる私の心につけこむためにやってきた――エイルは不愉快そうに鼻を鳴らしてそう吐き捨てる。
「けど、ヴィクトリアス家は今ガードが固くて、日頃交流のない貴族家との接触は避けてるみたいでね。追い返されて、帰るところだったんだけど……不思議な縁もあるのね。お陰でアルベルト家がろくでもない貴族だって貴女に伝えられたわ」
面白そうに語るエイルを、私はぽかんとした顔で見ていた。
「ど、どうして……そんなことまで言っちゃうの?」
人知れず出会って、傷の手当てまでしてもらった。エイルにとっては絶好のチャンスだったはず。
下心を隠して近づいてくれば、私は普通にエイルに心を開いたかもしれないのに。
「そうね、ついさっきまでは親の言いつけ通りに貴女のお友達になる気でいたわよ? こんな風に」
そう言って、エイルは私の手の上に自分の手を重ねると、そっと身を寄せてきた。
さり気ないスキンシップと、鼻先を掠める甘い香り。同年代とは思えないほど魅惑的な眼差しに、一瞬顔が熱くなる。
「けど、当のクレア・ヴィクトリアスが誰も居ない格納庫の隅で、血を流して泣いてるのを見ちゃったらね……」
そう嘆息して、エイルはつまらなそうに天井を見上げた。
「こんな子を騙すなんて、何考えてるんだろうって……冷めちゃったわ」
疲れたようにそう呟いて、エイルは私に視線を向ける。
「それで、どうして泣いてたの? 話せることがあるなら聞いてあげる」
「っ……それは……」
「心配しなくても誰にも言ったりしないわよ。私も親の操り人形だもの。誰かに聞いてもらいたいことがあるのに、誰にも吐き出せない気持ちは分かるつもり」
エイルは重ねた手にそっと力を込めた。
「だから今だけ。全部聞いて、その上で聞かなかったことにしてあげる。言いたいことがあるなら、ここで吐き捨てていきなさいな。……楽になるから、ね?」
励ますでもなく、立ち直らせるでもなく、秘めた弱さをただそのまま吐き出せば良いと、エイルは言ってくれた。
これまで出会ってきた、建前と偽物の笑顔で近づいてくる大人たちとは違う。
自嘲的だけど、それ故に誠実な雰囲気。
もしこれが最初から、私に取り入るエイルの作戦だったとしたら見事なものだけど――その言葉には何一つ、後ろ暗い思惑を感じられなくて。
エイルになら、ありのままの自分を曝け出しても構わないと思えた。
「……あのね」
ぽつりと、死んだ父と兄への感情が口から零れて。
そこから先は自分でも驚くほど饒舌に、日々の息苦しさと、未来への不安。身勝手な大人たちへの反感と、夢破れた虚しさが、次々と溢れだした。
こんなにもドス黒い感情が溜まっていたのかと、自分で笑ってしまうほどに。
燃え尽きた灰のような感情を、私は一粒の涙と共に、片っ端からエイルに吐き出した。
「……頑張ったわね」
全て聞き終えたエイルは、指先で私の涙をすくうと、優しく背中を撫でてくれた。
本当に、ただ文句を吐きだしただけで、何も解決していないのに。
エイルの言った通り、大きな胸のつかえが取れたような気持ちになれた。
「ありがとう……少しだけ、楽になった気がする」
「それなら良かったわ。だけど、これからどうするの?」
「私は……やっぱり」
「やっぱり適合試験を受けるって言うつもりなら反対。毎日毎日、大人に監視されながら訓練と勉強……結果を出せなきゃ、わざとらしいため息を聞かされるわ。貴女が思ってるより、ずっと辛いはずよ」
赤い腕輪を恨めしそうに睨みながら、エイルは語る。
「それに、どれだけ鍛えても、学んでも、戦場に出ればいつだって死と隣り合わせ。……覚悟がないなら、やめておきなさい」
どこか寂しそうに、エイルは遠くを見据えた。
「ならエイルには……覚悟があるの?」
私の質問に、エイルはしばらく口を閉ざした後で立ち上がった。
「――私は、操り人形のまま終わるつもりはないだけ」
堂々と腕輪の嵌まった手を胸に当てて、エイルは揺るぎない眼差しを向けてきた。
「富でも、名声でも、親が望むものは全て手に入れてみせる。その先で、私がアルベルト家を支配するの。権力に目が眩んだ両親を黙らせて、私が望むアルベルト家を作ってみせる」
自分を縛る一族を、自分の手で変えるために――
運命に抗おうとするその眼差しは、私にとって何より鮮烈だった。
「ふぅ……はっきり人に話したのは私も初めて。貴女もちゃんと忘れてね?」
ふと力を抜いたエイルは、はにかみながら視線を逸らした。
その時。
「クレアお嬢様! クレアお嬢様!」
上層から私を探す声が聞こえてきた。
「お迎えが来たみたいね。……お話しは、これで終わりにしましょう」
エイルは踵を返して、船の方へと歩いていく。
「ちゃんと適合試験なんて受けたくないって伝えなさい。貴女は光の中に居た方がいいわ。こっち側に来ちゃダメよ? ……それじゃあね」
「あ……」
行ってしまう。
お互い、言いたいことだけ言いあって。
何も交わらないまま、この瞬間が終わってしまう。
「わ、私がゴッドイーターになった方が、利用価値があったんじゃないの!? なのに、どうして止めるようなことばっかり……っ!」
咄嗟に立ち上がって、その背中に声をかけていた。
立ち止まり、数秒思案したエイルは――
「そうかもね……ふふっ、勿体ないことしちゃったわ」
優しい笑顔を浮かべて、振り向いてくれた。
――嘘偽りなく、心から相手のことを慈しむ愛情。
エイルの笑みから、私は確かにそれを感じ取った。
「さようなら、クレア・ヴィクトリアス。いつか花で一杯のミナトが作れるといいわね」
最後に贈られたその言葉が、私の心を優しく包み込む。
出会って、たった十数分。触れ合っていた時間はとても短い。
なのに、恐怖と不安に喰い尽されんばかりだった私の心には、小さな炎が灯っていた。
誰かに、手を差し伸べる――
それが一体どういうことなのか、私はようやく理解した。
「このハンカチ、返しに行くから!」
誓いの言葉が、エイルに届く。
「……要らないわよ、貴女の血のついたハンカチなんて」
呆れたように振り向いたエイルに、私は断固と首を振る。
「エイルが何て言おうと決めた! 必ず返しに行く! 貴女が世界のどこに居ても、私の意志で絶対に届けに行く! だから……だから、忘れないで!」
何にも縛られることなく、秘めた思いを吐き出し合った相手が居たことを。
優しい貴女の心と、その想いを知っている人が居ることを。
――遠くから、じっと私の瞳を見つめていたエイルは、やがて。
「……じゃあ、その日まで死なずに待ってるわ」
微笑みと共に、頷いてくれた。
「クレアお嬢様、こちらでしたか!」
私を迎えに来た使用人に、私は毅然と向き直る。
「心配させてごめんなさい。……屋敷に戻ったら、みんなに伝えたいことがあるの」
父と兄が築いてきたヴィクトリアス家の栄光。
グレイプニルという巨大な組織。それに救われている沢山の人たち。
その全てを、私が守っていかなければならないと思っていた。
そしてそれを守るためには、自分の全てを捨てて大人たちに従うしかないのだと。
けど、そうじゃなかった。
強すぎる光に照らされて何も見えなくなっていた私に、冷たく乾いた暗闇から道を示してくれた人が居た。
たとえ操り人形であろうとも、自分を捨てる必要はないんだと。
夢を見ていいんだと、そう教えてくれた。
だったら、私は――
「私はゴッドイーターになります。ヴィクトリアス家の当主として……誰かの心に寄り添える人になってみせる」
それが、道標と勇気を貰った私の答え。
結局、他人のためなのか。エイルはそう言って呆れるのかもしれないけれど。
これは、私を利用しようとする大人たちのためじゃない。
暗闇で喘ぐ人たちの心に、希望の花を芽吹かせるための――私がずっと見つけたかった道だから。
血の滲んだハンカチを握りしめて、私は一歩を踏み出す。
光と闇の境界線。暗闇で待つ人を光へと導ける、自分の望む未来へ向かって。